静岡市の文化財

徳川家康 大御所と駿府城下町

大御所家康の駿府生活

大御所とは

「大御所」とは前征夷大将軍や将軍の父の敬称です。家康も、慶長10年(1605)に息子の秀忠に将軍職を譲ったあと、「大御所」と呼ばれていました。ここでは駿府での家康とその周辺の暮らしについて載せていきます。

駿府での生活

晩年の家康は、駿府で政治の指揮をとる立場にもありましたが、時には側近や諸大名、駿府に住んでいた家康の末子たちと一緒に能に興じることがありました。家康に多様な趣味があったことは広く知られており、能もその中のひとつといえます。このほかにも、茶道や鷹狩といった、武士のたしなみとして身に着けておくべきものから、書や絵を書くこと、薬の調合なども行っていたことがわかっています。家康が使用していた衣服をはじめ、能や茶の湯の道具、家康の書いた書画などは、家康の死後、家康が葬られた久能山東照宮や江戸の将軍家、御三家に分け与えられました。各家に伝わる茶道具や能衣装などは、当時の家康の暮らしぶりを知ることができる貴重な資料です。

家康と「徳川御三家」

家康には11男5女の子供がいました。そのうち末の三人、9男義直、10男頼宣、11男頼房は家康の駿府移住とともにこの地に移り、駿府城内で生活していました。
この家康の三人の末息子たちは、家康の死後にはそれぞれ、尾張・紀伊・水戸に移され、後にはこの三人の家系が「徳川御三家」と呼ばれるようになります。
また10男の頼宣は慶長14年(1609)から元和5年(1619)までの約10年間(8歳~18歳まで)、駿河遠江50万石を領地として与えられ、駿府城を居城に駿府藩主を勤めています。頼宣の母お万の方も、頼宣について家康の死後も駿府で生活を続けました。現在でも、静岡市内には、日蓮宗に帰依していたお万の方にゆかりのある寺院が数多く残されています。

「家康公御真筆御影」宝台院蔵

「家康公御真筆御影」宝台院蔵

この画像は正式名称を「一品大相国安国殿徳蓮社崇譽道和大居士御真筆御影」といいます。「一品大相国安国殿徳蓮社崇譽道和大居士」とは家康の戒名で、「真筆」は家康自身が描いたことを表します。

本丸御殿の指図(設計図)「駿府御城并御座鋪図」静岡市蔵(埋蔵文化財センター保管)

本丸御殿の指図(設計図)「駿府御城并御座鋪図」
静岡市蔵(埋蔵文化財センター保管)

絵図が作られた年代は不明ですが、駿府城の本丸内にあった御殿(家康やその後の城主が居住した館)を表した絵図です。家康に謁見するために様々な人々がこの御殿を訪れていました。

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