静岡市の文化財

世界文化遺産「富士山」構成資産 三保松原

三保松原の歴史・地勢

三保は、東北方向に伸びた長さ6kmの砂嘴(さし)です。安倍川がもたらした土砂と、久能山東照宮が位置する、有度山の南斜面の海食崖から削り取られた大量の砂礫が、東に流れて運ばれ三保嶋が形成されました。
三保嶋がいつ陸地に接続したかは明確ではありませんが、戦国時代の永禄10年(1567)、里村紹巴(さとむらじょうは)の紀行文「富士見道記(ふじみどうき)」の中には、三保から半島の付け根にある駒越まで徒歩で浜づたいに渡ったと記されています。つまり、この時期には嶋の西端の折戸と、対岸の駒越との海峡「瀬折戸」が次第に埋まり、浅瀬が形成されていたものと考えられます。
その後、江戸時代には完全に陸地が形成されましたが、道の整備はされておらず、御穂神社への参詣も対岸から船で渡っていたようです。
江戸時代の三保松原は、御穂神社の領地として徳川家康をはじめとした歴代の将軍によって庇護を受け、松並木の伐採は禁じられていました。明治時代になると、松原の所有権は一般に払い下げられ、同時に売却を目的とした松の伐採が多く行われました。
三保松原の保全は、明治31年(1898)に保安林に指定されたことに始まります。大正13年(1922)には名勝に指定され、観光地としても全国的に有名になり、絵はがきをはじめとする土産物も多数作られました。

「三保ノ図」もりおか歴史文化館蔵

「三保ノ図」もりおか歴史文化館蔵

三保半島の成り立ち(概念図)

三保半島の成り立ち(概念図)

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