静岡市の文化財

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近現代の静岡市

近代の静岡市

明治維新(めいじいしん)後、徳川家とたくさんの家臣(かしん)たちが静岡市に移住してきました。徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、静岡で釣り・絵画・書道・写真といった様々な趣味(しゅみ)を楽しみました。またひんぱんに自転車で出かけていたので、各地に慶喜にまつわる話が残っています。

明治22年には東海道線が全線開通し、静岡駅前は近代的な姿へと変ってきました。東海道線によってこれまでとは比べ物にならないほど人とものが行きかうようになりました。静岡市の場合、鉄道は重要商品であるお茶の輸送、安倍川餅やわさび漬(づけ)といった静岡名物が、全国的に有名になっていく上で重要な役割を果たしました。

大正時代になると、水道や電灯などの生活に必要な施設や、鉄道・バスなどの交通網が整備されました。まだ自動車が家庭に普及(ふきゅう)していなかった時代、路面電車(ろめんでんしゃ)は人々の欠(か)かせない移動手段として市街地を走っていました。

また、それまでは一部の知識人を中心に受け入れられてきた欧米の思想や文化、芸術なども多くの人々の間にも広まります。この頃、七間町には「パテー館」や「キネマ館」などの映画館ができ、七間町(しちけんちょう)を中心とした繁華街(はんかがい)を散策(さんさく)する「七ぶら(しちぶら)」が流行しました。

現代の静岡市

昭和15年、旧静岡市の中心市街地で大火災が起こりました〈静岡大火(しずおかたいか)〉。ほとんどの建物が木造だった時代、一部のコンクリートでできた建物を残して、大部分の家屋(かおく)や店が焼失しました。静岡大火の後、県と市が進めた火災に強い「不燃化共同(ふねんかきょうどう)ビル計画」のもと復興(ふっこう)を進めていたころ、日本は太平洋戦争に突入していました。昭和20年には旧静岡市と旧清水市が空襲により、再び大きな被害を受けました。

旧静岡市は戦後の復興で火災に強い共同ビル化がすすめられました。防災に優(すぐ)れるだけでなく、郊外の大型スーパーやデパートに負けない、「人のにぎわいの絶えないまち」として全国的に注目されるようになりました。旧清水市域では、連合国軍総司令部(れんごうこくぐんそうしれいぶ):GHQによって清水港が貿易港(ぼうえきこう)に指定されたことで、港を中心とした町の復興が進みました。

新しい静岡市へ

平成15年(2003)、静岡市と清水市が合併(がっぺい)し、新しい静岡市が誕生しました。平成18年には蒲原町(かんばらちょう)が、20年には由比町(ゆいちょう)が編入し現在の静岡市になりました。それまで2市2町がそれぞれ持っていた歴史・文化を尊重しながら、新たな静岡市としての歴史・文化を創造(そうぞう)していかなくてはなりません。

路面電車の写真 静岡市文化財協会蔵

路面電車の写真 静岡市文化財協会蔵

路面電車は昭和37年まで市内を走っていたんだよ
大火後の紺屋町から松坂屋のビル方向をみた写真 静岡市文化財協会蔵

大火後の紺屋町から松坂屋のビル方向をみた写真
静岡市文化財協会蔵

静岡大火のあと、防火のために青葉通りが整備されたんだよ
青葉通りと周辺の整備された風景 静岡市文化財協会蔵

青葉通りと周辺の整備された風景
静岡市文化財協会蔵

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