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古代の静岡市 〜縄文・弥生・古墳・平安〜
縄文時代~平安時代
縄文時代、人々は山の麓(ふもと)や沿岸部(えんがんぶ)で定住をはじめ、狩猟(しゅりょう)や漁労(ぎょろう)を中心に生活していました。清水天王山遺跡(しみずてんのうざんいせき):清水区宮加三(みやかみ)では、居住跡(きょじゅうあと)や集石墓(しゅうせきぼ)、木の実を貯蔵(ちょぞう)するための穴が見つかり、蛭田遺跡(ひるたいせき):駿河区西大谷(にしおおや)では、ドングリの灰汁抜き(あくぬき)をしたと考えられる水洗い場が見つかりました。
弥生時代になると人々は平野でも生活をするようになりました。平野の中でも水が豊富な湿地帯(しっちたい)では水田を営み、微高地(びこうち)など水はけのよい場所で集落や方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)を営んでいました。登呂遺跡(とろいせき):駿河区登呂では、水田跡と住居跡が一緒に見つかり、当時の生活の様子がわかりました。
古墳時代には山の上に古墳〈首長(しゅちょう)などの墓〉が次々と造られます。壊(こわ)れてしまったものもありますが、現在では600基(き)程の古墳が知られています。賎機山古墳(しずはたやまこふん):葵区宮ヶ崎は、規模や立地、豊富な副葬品(ふくそうひん)などから当時かなりの有力な権力者であった人物の墓であると考えられています。汐入遺跡(しおいりいせき):駿河区宮竹や小黒遺跡(おぐろいせき):駿河区小黒では、首長の居館(きょかん)と考えられる掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)が見つかりました。
平安時代には律令制(りつりょうせい)が施行(しこう)され、役所の機能を持った郡衙(ぐんが)や国府(こくふ)がおかれました。ケイセイ遺跡:駿河区中田では、墨で「有厨」(読み方不明)と書かれた墨書土器(ぼくしょどき)や、税として徴収(ちょうしゅう)した穀物(こくもつ)を管理する正倉(しょうそう)と考えられる総柱建物跡(そうばしらたてものあと)が見つかりました。ケイセイ遺跡は、地域を統治する役目を担った駿河国有度郡衙(するがのくにうどぐんが)の可能性が考えられています。

登呂遺跡(とろいせき)


賤機山古墳(しずはたやまこふん)
