今川氏 駿河に君臨した名家
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駿府の今川氏
今川氏は、室町幕府将軍の足利家の一門でした。暦応元年(1338)、初代範国が駿河国守護に任じられ駿河今川氏が誕生しました。
7代氏親
氏親は、父で6代の義忠が遠江侵攻中に戦死した後、生母北川殿の兄弟であった伊勢盛時(後の北条早雲)の支援を受け家督を相続しました。氏親が行った検地や分国法制定によって、今川氏は守護大名から、領国において政治・経済・社会などの諸側面で最高・唯一の公権力者である戦国大名となりました。
女戦国大名 寿桂尼
寿桂尼は氏親の妻で、氏親の死後は息子の氏輝が若年であったため、領国支配に積極的に携わりました。氏輝が16歳になるまでの2年間、寿桂尼は「帰」(とつぐ)の印文のある自分の印をおした朱印状を出し今川氏の政務を取り仕切ったことから、「女戦国大名」と呼ばれました。
8代氏輝
氏輝は、かつては病弱であるとされてきましたが、家臣団の編成や商業振興政策を積極的に行っていたこと、また軍事的には、甲斐の国の武田信虎とたびたび合戦を行うなどの活躍をしていたことが明らかにされてきました。
9代義元
義元は、氏輝の死後の家督争い「花蔵の乱」に勝利し、家督を相続しました。甲斐の武田氏の娘を嫁に迎えた事から勃発した「河東一乱」の後、北条氏・武田氏と三国同盟を結びました。義元は氏親・氏輝の政策を継承し、一層発展させましたが、三河国への一大デモンストレーションとして進軍した桶狭間の合戦で、織田信長の軍勢に討ち取られました。
軍師 雪斎
雪斎は、京都で修業していましたが、今川氏親に帰国を要請され義元の教育係を命じられました。後に雪斎は、臨済寺の住職として宗教的な影響力を持ちながら、同時に今川氏の軍師として政治・軍事・外交に手腕を発揮し、義元を支えました。また、幼少時の竹千代(のちの徳川家康)の教育係であったとも言われています。
10代氏真
義元の死後、今川家を滅亡させた張本人として語られますが、領国の支配強化や経済政策に手腕を発揮しました。しかし、武田信玄の駿府侵攻によって掛川へ逃れ、最終的には徳川家康の遠江侵攻によって戦国大名としての今川氏は滅亡しました。

「今川氏親像」増善寺蔵

「寿桂尼像」正林寺蔵

「雪斎像」臨済寺蔵