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文化財ブログ
2020.05.18「令和元年度 駿府城跡天守台発掘調査の成果」発表!その3
令和2年1月7日に記者発表を行った令和元年度の駿府城天守台発掘調査成果について、今回は小天守台の発見に伴う天正期(豊臣方)天守台の築城に関する新たな見解について解説します。
※「令和元年度 駿府城跡天守台発掘調査の成果」発表!その1、その2は下記のリンク先へ
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/blog/202001/post-261.html
http://www.shizuoka-bunkazai.jp/blog/202001/post-262.html【天正期天守台北西隅角部 高さは3.8mに及ぶ】
【小天守台南辺の一部】
平成30年度の調査で発見された天正期天守台(平成30年10月16日の市長定例記者会見にて発表)は、西辺約37m×北辺約33m(検出面での大きさ)であり、他の城郭と比較すると天正期最大級の大きさになると推測されます。
石垣は、自然の石やあまり加工していない石を積んだ「野面積み(のづらづみ)」という積み方で築かれています。幅1~3mほどの石材が多く用いられており、秀吉の大坂城や聚楽第にも匹敵するほどの非常に大きな石もありました。
このことから巨石を選んで運び、高い石垣を積むという当時の最新技術が用いられ、それを可能とする体制の存在が考えられます。【天正期天守台北辺 3mを超える石材を発見】
【天正期天守台西辺 基底部から4.6mの高さまで石垣が現存】
また、天正期天守台の石垣近くからは、金箔瓦(文様部分に金箔を貼り付けた瓦)が大量に出土しました。
金箔瓦は、この時期の豊臣方の城の一部でも使われています。【出土した金箔瓦】
秀吉の大坂城にも匹敵するような規模の天守台とそれを築いた築城体制や、瓦(金箔瓦を含む)の特徴などから、天正期天守台は豊臣方の特徴を持つものだと考えられ、平成30年度時点では天正18(1590)年に駿府城主となった、豊臣配下の大名の中村一氏が築城したものであるという仮説を発表しました。
【天正期天守台 東辺】
しかし、今回の小天守台の発見により、新たな見方が出てきました。
その理由は、この小天守台が、家康の家臣で駿府城の築城を担当した松平家忠が記した『家忠日記』に書かれている駿府城の『小傳守』(小天守のこと)に合致すると考えられるためです。【小天守台南東隅角部】
『家忠日記』には、天正16(1588)年5月12日に天守、天正17(1589)年2月11日に小天守の普請にあたったという記録があります。
この天守と小天守が、発掘調査で見つかった天正期の天守台と小天守台だとすると、天正期の駿府城は家康が築いたものとなります。そのため、小天守台の発見により、豊臣方の城と共通する特徴を持つ天正期の天守台(天守)と小天守台(小天守)を家康が築いた可能性が浮上しました。(※)
ただし、当時の豊臣政権下で駿府城が果たしていた役割、築城のための人員や技術の確保などについて、総合的に考えると、天正期の駿府城は豊臣政権の影響下にあったようです。
当時、豊臣秀吉配下のナンバー2の大名となっていた家康の城づくりに、どの程度豊臣政権の関与があったのでしょうか。
※『家忠日記』における天正期の天守・小天守の記述は、以前から把握されていましたが、平成30年度時点では小天守台の遺構が発見されていなかったため、今回発見された遺構と日記の記述を結びつけることはできませんでした。【軒平瓦(左)と軒平瓦(右)】
一方で、出土した金箔瓦には興味深い特徴がありました。
それは次回のブログで紹介します。お楽しみに。